昭和49年02月08日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
ここにこの様に教えておられる、これを頂かせてもろうて本当に、このとおりに神の言う通りにせず、おかげは受けても、舟にも車にも積めぬほどの神徳を頂く者が、実に少ない。神の言う通りにすると言う事は、どう言う事だろうか。神の言うとおりにすると言う事。もちろん最後に心の内を改める事が第一と。心の内を改めると言う事から、先ずなされなきゃならん。神に一心とは迷いのない事。教えて下さった事を、「そうじゃろか、本当じゃろうか」と。
「いや本当だろうけれども、そんな難しい事は出来ん」と言う様な事は、御道の教えにないと思うんです。誰でもその気になりゃ誰でも行じられる教えばかりなんだ。それを心の内を改めることをしないから、難しいのである。難しいと言や心の内を改めると言う事が難しいのである。心の内を改めさえすれば、教祖様が教えて下さる事が、ドンドン心の中に入ってくる。自分の我情自分の我欲というものがあるから、自分の思いで通そうとする。自分の思いが本当な事の様に思う。
そこで私、神の言う通りにする者が少ないと言う所を、どういう風に合楽では、説いておるかと言うと、神様任せという。神様任せと言う事は、ここでは親先生任せだと言っておる。任せておればそこに多少の食い違いがあってもです。任せておってからの事なのですから。これが神の言う通りにしておるようなものではなかろうかと。任せる右と言や、はいと右、左と言えばはいと左と頂けれる信心。これなら神の言う通りにしなければならないことになる。
昨日は秋永先生所の、お爺さんの丸一年の式年祭が、自宅で内々だけもちろん一年祭ですから、親戚内々だけで致します。本当に素晴らしい有り難いお祭でした。一時頃迎えに来ると言うとったからちゃんと用意しとったけど来ませんもん。要約一時間遅れて来ました。それで久富先生電話をかけ、あぁ麻生さんから電話がかかってきたか、かけたか知らんけれども、どうした風じゃろうかち言いよった所が、それがあぁた何にも出来とらんちこう言うげなもん。
私がそれを聞いてから「とにかく親の一年祭ば仕えるとに、時間になっとっとに、何も出来とらんちゃ何ち言うことか」と言うて、私が久富先生を怒ったっちゃしょうがないけれど、まあそんな事でした。それで一時間後に、文男さんが迎えに来ました。成程ちょうど前日まで、三日間の何ですか、潮騒展ですかね、大売出しをやってましたから、兄弟三人ながら、これは後片付けだけでも、まだ片付いとらんのでしょうから、大変だったことだと思います。
けれども私は昨日そのことを申しました。霊祭というのはしかも親の式年と言った様なことやらは思いに思い、祈りに祈ってしなければならないものだと私が言うた。それにその当日になって出来とらんてんなんてん、そげな事が良かろう筈がないじゃないか。所がさすがに、秋永一門ですよね。暫くは待ちました。だから大分遅くなりましたけれどもです。本当にあっと言う間に、ものの見事にお祭が出来ました。
全部本当に服装一つでも式服に全部変えまして、孫子に至るまで玉串を奉る様は、何と言うても信心の家庭だなぁ、日頃信心の蓄えが出来ておらなきゃ、出来るこっちゃないなと、私は思いました。蓄えがあるからあっと言う間に出来るんです。言うならば銀行に預けてあったつを、ちょっと引き出してくるようなもんです。段々お祭を仕えさせて頂いて、私が、お礼を申させて頂いて、色々頂きましたことでしたけれども。
「湧き出ずる、愛の真清水汲みばやと」というお歌を何時か頂いた事があったですね。秋永先生所にも、それを私が書いてやっとりますから、あそこの御広前に、綺麗な額に入れてある。それを頂くんです。しかもその湧き出ずるというのは、湧きというのはお爺ちゃんの送り名に、和の気と書いてある平和の和と。言うならば御霊様の働きと言うか、御霊様の働き、言うなら愛の真清水が懇々として湧いておる。これを汲んで頂くと言う事が有り難い。それを汲めれる信心と言う事が尊い。
次のその次がです頂くことが「永谷園の松茸の味」と頂いた。テレビでやってるでしょう、よく。あれは即席のお吸い物なんです。それでその事を申しました。これは合楽の言うなら、欠点と言うなら欠点だと。昨日はね昨日の言葉に、今朝からの御理解に桜の花の信心より梅の花の信心をせよと。梅の花は長う苦労しておるから散らんという御理解を頂いたが、今日の御理解の内容は、今までと違っておった。桜の花というのは昨日皆さん頂かれた通りです。私が昨日御夢に頂いたお知らせに基いて聞いて頂いた。
トウミがあらゆる角度に何台もおいてある。トウミというのは選別する、昔こうやって手で回して殻は飛んで行く、実が下に落ちるという素朴な機械なんです。木で出来た。あのトウミが、あらゆる角度に置いてある。それでこうやって風を送られると、実は下へ落ちる、軽かつは他所へ飛んで行くと言う様な、と言う事はどう言う事だろうかと思うたら、結局飛んで行くような信心を私は桜の花の信心だと。名指して悪かったけれども、前の総代の立川さんの例をとった。
本当に人の真似の出来んごたる良か信心が出来よった。それこそあらゆる角度から、どんなお試しを受けても、ただ金光様親先生親先生のためには、命も惜しくないというほどしに打ち込んどったです。ところがこの人は他の事には強いけれども、金に弱かった。ある新興宗教の先生か信者か知らんけれども。その金を私が出してやろうと、私の宗教に入るならばと。言われたからほんなあっと言う間に、それこそあっと言う間に、金光様の信心辞めてしもうた。
こりゃもう麗々しゅう立派にお祭してあったのも全部崩したり、どうかしたりしてもうたそうです。そして〇〇宗に入ってしもうた。一時は具合良うやっていきよったごたるけれども、最近は見る影もないような、落ちぶれ方だという話を、先日聞かせて頂いてです。本当にもう一遍なんとか御神縁を頂き直さなきゃならないなと。矢張り今でも忘れきらんです。やっぱ一時であっても、それこそ親先生のためなら、命もと言う位に打ち込んどった。これは事実ですから。私もやっぱ忘れきらんです
。けれども他のお試しでならば、強かったけれどもあらゆる角度から、トウミが据えてある、そのとうみの金という風でばぁと吹かれたら、あっと言う間にまいってしまった。残念。そういう信心をやはり桜の花の信心であったと言わなければならない。合楽の信心の、もう一つの傾向として、なんとはなしに桜花的なものがある。本当に梅の花の信心をさせて頂いて、おかげを頂いて行かなければならん。
昨日の御理解の後に、神様からお知らせ頂いておった事を、御話に頂きし忘れとったから、済んでしもうてテープやらは、片付けてから皆さんに申した事があった。昨日私が御神眼に頂いたのが、信心の帯をせよというあの事についてです。喪服を着て黒の帯をピチッと締め上げてある。これはある人のことをお願いしよったらそれを頂いた。だから中々しっかりした信心が出来よるわけなんだ。あの喪服に黒い帯をピチッと締めて、立派な信心の帯が出来よるけれども。
なんとはなしに精進向きだと。言うならば苦しいからお参りをしよると。この事ばお願いして、どうでもおかげ頂かにゃならんから、毎朝家族揃うて、一生懸命信心しよるのだ。だからこれではいけん。やはり賑やかな目出度い。言うならご祝儀の時に使うような、立派な帯を締めるような、信心でななからにゃいかん。そういう信心とは毎朝毎朝、こうやって朝の御祈念にも参ってくるけれども、教えを頂くことが楽しゅうして応えん。御教えが、ぐいぐいと自分の身に付いて行くとが、自分で感じるごとある。
今日はどういう御理解が頂けるじゃろうかというて、お参りをして来る様な信心が、私は信心の帯を目出度い頂き方だ。そういう頂き方にならにゃいけん。と言う事をその後皆さんにも聞いて下さった通りです。そしたら昨日です。皆さんが先生今日の○○さんの喪服を着ておる、いわゆる信心の帯をしておるというけれども、喪服の真っ黒い帯をしておるというのは、親先生あれは私の方じゃなかったでしょうがて、皆が言うんです。言うならば、佐田さんあたりのように、信心の手本のように言われる人ですらが。
あらぁ私の方じゃなかったじゃろうかとこう言われる。「うんにゃお宅じゃなかったですよ」けれどもです、厳密に言うたらこれは私を含めて、矢張りそのような気がするんです。様々な難儀な問題を、ここに持ち込んでくる。はぁそれはきつかろう、それは苦しかろうと思う事が日の内に幾つかは、本当に同情しなければおられないような御取次ぎをさせてもらうけれどもです。夜もなか夜中もなか、その事をちょっと目覚めにでも思うたら、もう眠られん。
だから又お広前に出て来て御祈念をすると言った様な事は、ある意味合いではそう言う事にもなる。一切を有り難い有り難い、はぁおかげで信者が良か修行さして頂いております、有り難うございますと言う様な、頂き方で良いのだ大体は。けれどもそこに人情が出て、言うならば折角のめでたい信心の帯をしとらんもんだから、そういう時に心もとない。やはり神様に縋ると言う事になる。だから厳密に言うと皆そうではなかろうかと思うですけれども。お互いの信心を再検討させてもろうて確かに自分はお金には強い。人から催促されたっちゃ平気でそこの修行をやっていくという人がある。
四百四病の病より、貧より辛いものはないと言うてです。それこそ、ここで病気をしてお金が与えられるなら、病気したっちゃ良かっちいうごたる人すらある。けれども、難儀ということになりゃ、どういう難儀だって同じなんだ。けれども一つの事を体得しておるけれども、体の上では、どういう風が吹いてきてもびくともせん。金の方では、人間関係の難儀では、強いけれども。それこそ、立川さんじゃないけれども、金の嵐が吹いてきたら、あっと言う間に変わってしまった。
お互い一つ考えてみてご覧なさい。信心は続けておる。けれども何時も失敗だらけではなかろうか。その証拠におかげになっていかないじゃないか。信心は辞めはきらん。けれども、なんとはなしにあら又あそこで失敗した。又人間関係で問題が起こったら、もう腹は立てておった、もう心が真っ黒になっておったというのは、失敗しとるとと同じ事です。どうしてこげん金で苦労せんならんだろうかと思うたら、もう失敗しとるとと同じ事です。昨日も私は、久富さん達夫婦に申しました。
丁度そういうお知らせを頂いてあった。今合楽で最高の修行をあなた方夫婦でしておる。それで例えば夫婦がです、ちょいとお母さんお前は金で責められ病気で責められ、しかも病気もただの病気じゃない。夫婦の者の病気というものはそれこそ大変な病気なんだ。とてもほんに是から先、神様どげなおかげば下さろうっち思いござるじゃかね、楽しい事じゃないかと言う様な雰囲気が、あんたん方にはなかと私が申しました。
何とはなしに精進のような、何とはなしに淋しい。信心なしっかり出来よるけども、そういう感じが強い。ちょいとお母さんそればってん、こげな修行さして下さるからには、どういう徳を下さろうとしてござる、楽しいことだと言う様な雰囲気がない。これは私共の、様々な修行の一番酷い、金でも体でも色々な、長い間胸の病気で休んでおる、妹の婿が家の中におりました。
それこそ金では、これ以上の苦労はなかろうと言った様な苦労をさせて頂いておる時でもです。私の場合何時も笑い、どよめきでしたよ。そげんワーワー言うちから、賑おうとるっちゅう意味じゃなかですよ。ほんなこてそげなとにかく家の鍋ん中どん見たなら、人がビックリするような物を頂いておる時であってもです。言うならばクゥ~としたち言う物がなかったという事です。さぁ一頑張りさぁ一頑張りというのであったです。
おかげを頂く筈だと自分で思うです。そういう信心がです、私は信心は心の内を改めることが第一なり。本気で改まり合うて行くと言う所からです。教祖の御教えが入って、お任せしきった生き方。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと仰る。任せきった任せきったと言う事が、どう言う事かと言うとその時、神様から色々とお知らせを頂いておりましたから。
それこそ人からは馬鹿んごと言われても、親からでも、悪く言われる様な事があっても、神様の仰せには背かれんと言うて、神様が教えて下さる。教祖様が教えて下さる事を、それこそそこに貧乏揺るぎもなかったと言う事。神の言う通りにして来たと言う事です。誰々さんが、あげん言うて頂くから、親切であげん言うてもらうから、親がああ言うからと言うて、そこに揺るがなかったと言う事です。ただ神様の言う通りの事を、一生懸命させて頂いておったと言う事。
成程舟にも車にも積めぬほどの神徳があるという神徳を、私が頂いておるとするならば、その時分に頂いておったんであろう。その時分の御神徳の元がです。今日の合楽の御比礼であろうと私は思うです。そう言う様な御話をです、昨日は秋永先生とこでさせて頂いた。秋永一門兄弟どの人を見ても素晴らしい信心をする。例えば一週間十日お参りせんでもです。毎日毎日お参りをしてきておる人と話し合うて、返って秋永先生あたりの話を聞いておるとです。
親先生の今朝言いなさったことを、秋永先生がもうそれを、お参りをしてきとらんばってん、そういう信心をやって行っておると言う事です。だからそれが良いと言う事ではない。これは秋永一門ここはどうでも、改まらなければならない事はです。どこまでも永谷園の松茸のお吸い物である。言うなら即席的である。そして手紙だけは追うて行く。昨日のお祭りでもそうである。前々から祈りに祈り願いに願って、それこそ手作りの一つの物を作ってからででも、お爺さんの御霊様にお供えどんするち言う。
もう何もかにもあっという間に出来るような即席的なお祭である。有り難い有り難いけれども、本当に松茸の匂いもプンプンしよるし、味も良いけれどもこれでは、ほんなこっじゃなかろうが。やっぱり椎茸の出汁もとった鰹節の出汁もとった。化学調味料もそれに加えた。そして何とも言えん味合いのものにして行くと言う様な信心に欠けておる。これは秋永と私は言うけれども、その代表的なものであって合楽に何とはなしに、そういう雰囲気があるんだ。言うなら桜の花的なものがあるんだ。
信心辛抱の所にです。言うならば絶え得られない、信心辛抱が出来ない。そういうものを合楽の者は、多分に持っておる。今朝から私は御夢を頂いた。そこへいっぱい部屋におる。私の部屋の中にまぁ十人ぐらい入っておる。それを今この事務室なら事務室に私が居る。私がピストルを持っとる、実弾の込められた。それに文男先生と佐田恭三さんが入ってこられた。私はこの部屋に入ってきたら、その人を撃たなんごつなっとる。私が撃ぞと言うて、こうやって構えた。
そしたら佐田恭三さんは、親先生が撃ちなさるなら撃ったって良かち言うちから入ってきたけん、引き金を引く暇がなかった。文男さんはどうかと言うと、絶対撃ちゃきらんち。そげな顔しとるとですよ。俺は合楽で一番親先生から好かれとる。自分ばそげな撃ちなさる筈は絶対ないち言うごたる風で、ニヤニヤ笑いながら入って来た。とうとう撃たれなかった。あんたなんかしらごつかと思うて、こら実弾の入っとるとばい。
こうこしよるうちに、それが引き金に手が掛かってから、下の方にブリキの書類入れのような箱があった。それをボーンと撃ち抜いた。それを見てから二人がビックリした所を頂いたんです。そして今日の御理解を頂いてですたい。神の言う通りにすると言う事は、本当に任せると言う事だ。これは文男先生の生き方と、佐田恭三の生き方は結果においては同じです。やっぱこちらへ入ってくる者入ってしまっておる。
だから本当に信じ信じられるというものがなからなければ、任せると言う事は出来るこっちゃないです。いぃや私は親先生任せち言いよるばってん。それは自分の都合の良か時だけは、任せきっておるであって、ちょこっと自分の都合の悪い事は、絶対任せるじゃないですか。私が実弾を持って、こうやって構えとるから恐いわけなんです。と言うて佐田恭三さんの様にです。よし親先生が撃たれるなら撃たれたっちゃ良いというだけに、信じ信じられておる。
文男先生じゃなかばってん親先生が、俺じゃなからにゃ出来んごと思うとるとば、撃つ筈がなかじゃんのち言うごたる風で入ってきよる。、私は撃とうと思うばってん、あんまり思い込みが強いですから、信じられとるもんじゃから撃つ暇がなかった。そして要約合格したという感じです。そしてピストルが、どうかしよる内に下を向けて、私もびっくりした。それで後はねこれは危なかけん、弾は抜いどこうね文男さんち言うちから、私がその弾を全部抜いでおる所を頂いたです。
ははぁこれは合楽に一つの、親先生任せと言う様な事でも危険性のない、驚かんですむような、お任せ仕方の出来れる道が、これから開けてくるかなと私は思いました。言うならば神の言う通りにする人達が、段々出来てくると言う事です。神の言う通りと言う事は微に入り細に渡って、教えに基くと言う事ではないけれどもです。任せると言う事は、神様の言う通りになると言う事ですから。右向きなさいはい。左向きなさいと言うたら、はいと言えれると言う事なんです。
神の言う通りにする。これはそう言う様な事だという風に今日は聞いて頂いたんです。神の言う通りにすると言う事は、本当に親先生任せそれは、例えば危険を感じてもです。親先生から、騙されても良かと言うか、殺されても良かと言うか。それでなかったら親先生に、自分なぞっこん惚れ込まれておるから、そげな事はそれを信じ込む事。神様に好かれておると言う事。
神様の言う通りにすると言う事は、今日私は任せるという意味において聞いて頂いた。どんな場合であってもですよそれは。自分の都合の良か時だけ任せるというのはですたい。それは金光教で言う任せるではない。それでは舟にも車にも積めぬほどの神徳があると言う事は言えません。舟にも車にも積めぬほどのおかげを頂くと言う事は言えるかも知れません。けれどもそのおかげは使えばなくなるというものですから。
舟にも車にも積めぬ程の神徳と言う事は、それこそ使うても減らぬ金百両であって、限りがないのですから。それには任せきる信心をさせて貰わにやいけん。是は昨日秋永先生とこであんた達が一番その代表だという風に言うて話した事もですたい。言うなら即席的なおかげ。それに甘んじる事なしに、本当の意味での味合いのある、お吸い物の味が味合えれる信心にならせて頂かなければならない。そこは徳の世界である。
それには実意丁寧神信心がなされなきゃならなん。よかよか主義ではいけない。折角湧き出ずる愛の真清水をです、汲み取らせて頂くおかげを頂かなければならん。永谷園の松茸の味では、それは美味しくない事ない美味しい。けれどもそれは只おかげの世界である。やはり手の込んだいや手は要るけれども、本当の味合いというのは、御道の信心によってお徳を頂いて、限りないおかげに恵まれると言う事が、本当の信心の味合いという風に思うですね。
どうぞ。